田垣内友吉について

田垣内友吉のこと

田垣内友吉(たがいとともきち)20歳頃
田垣内友吉(たがいとともきち)20歳頃

熊野から京都、そして東京へ

 友吉は明治27年(1894)2月11日、父粂吉、母けいの5人兄弟の三男として三重県南牟婁郡五郷村大字桃崎に生を受けました。幼少の頃より絵を描いたり作文が好きで、どちらかといえば内向的な子どもだったようです。それを裏づける青年期のエピソードとして、野外で写生する時、大急ぎで山に駆けのぼったり、田んぼの畦道を自分の専用の道として利用することで、誰にも会わないですむ工夫をしていたそうです。しかし、こんな友吉も、兄である保太郎の子、美栄、愛治に対しては、美栄をモデルに絵を描き、愛治には絵の手ほどきをするなど心優しい面も備えていました。

 五郷尋常小学校卒業後、京都の同志社中学に入学。学業の傍ら菊池契月に日本画を習い始めました。京都の持つ深い歴史に培われた文化的な環境が、友吉に本来備わった芸術を志向する心に灯りをともしました。

 数年後帰郷、自宅の石蔵をアトリエに、本格的な制作活動が始まりました。充実した制作活動の中で次第に友吉は、日本画が自己の追い求めている表現を可能にするものではないと考え始めていたようです。そんな思いの積み重ねが、友吉を東京へと駆り立てていきました。この時の上京がその後の人生を決定づける、洋画家の文化勲章受章者、中川一政との出会いにつながっていくのです。

友吉の作品が入選した春陽会展第五回・第七回出品目録
友吉の作品が入選した春陽会展第五回・第七回出品目録

中川一政との出会い

 大正11年(1922)4月23日山東光恵と結婚、翌年長女愛誕生。31歳となった友吉は、自らの絵画表現を見出すため、勇躍東京へと旅立ちました。東京では美術界の動向を知るべく、貪欲に各種美術展に足を運びました。多くの美術展の中で友吉は、若き多くの画家が自己の表現を掘り下げようと切磋琢磨、しのぎを削る洋画団体・春陽会に次第に惹かれていきました。当時の春陽会は日本の美術界を担う中川一政、石井鶴三、木村荘八、岸田劉生、萬鉄五郎、梅原龍三郎といった、錚々たる人物が所属していました。

 自己の目的を達成する場所は、春陽会よりほかにはないと思い定めた友吉は、日本的発想で東洋風洋画を志向する強烈な個性の人、中川一政を我が師とあおぎ交流を深めていくのでした。春陽会そして中川一政との出会いにより、くもりのない広々とした人生の「道」が明らかとなったのです。内向的な行動は姿を消し、自己に素直で合目的な生き方を手中におさめました。大正14年(1925)の日記には、中川一政との心温まる交流の数々が、1冊のノートに綿々と綴られています。中川一政は1歳年下の友吉を弟のように可愛がりました。自宅に招かれたり、一緒に写生に出掛け絵画のこと生きることを学んだ日々。勇気をもって歩み出したからこそ与えられた至福の時の流れ。

充実した制作活動ののちに

 昭和2年(1927)4月、第5回春陽会展(東京府美術館)に「初秋の郊外」「五郷桃崎の景」が初入選。翌年、二女サト子誕生。昭和4年(1929)4月、第7回春陽会展(東京府美術館)に「春」が入選。会場を訪れた洋画家でシュールレアリズムの巨匠・古賀春江が、春陽会展出品作の寸評のなかで、「田垣内友吉の春は穏健でよい」と評しました。同年10月、第3回山人会(新宿・紀伊国屋書店)に「森の風景」を出品。

 秋の訪れとともに、旺盛な活動のかげで野宿する辛さより、制作を優先して無理を重ねてきた友吉は、風邪をこじらせました。コンコンと胸にこもる咳が始終続きました。この時既に結核を病んでいたのでした。昭和5年(1930)、待望の長男清之誕生。元気な泣き声を別室で聞きながらの療養生活となりました。

 中川一政、光恵、愛、サト子、清之・・・。大胆と繊細。自分の1枚を求める生き方。最高の師と巡りあえた。春陽会に2度入選した。子どもを3人授かった。ようやくこれからの時だった。昭和6年(1931)10月4日、日差しもようやく和らいできた秋の日、37歳の友吉の幕が静かに下りた。

 


田垣内友吉年表

五郷から京都へ~日本画修行とキリスト教に傾倒~

父・田垣内粂吉    母・田垣内けい
父・田垣内粂吉    母・田垣内けい

明治27年(1894)2月11日

・父粂吉、母けいの五人兄弟の三男として三重県南牟婁郡五郷村大字桃崎に生を受ける。

・父粂吉は、当時五郷村収入役を務めていた。田垣内家は代々農林業を営み、山林田畑を多く所有する大地主として知られていた。

・母けいは、桃崎福本家の長女。

・友吉は、幼少より絵を描いたり、作文を書くのが好きで、どちらかといえば内向的な子どもだった。

大正6年(1917)当時の田垣内家住宅(三重縣史より)
大正6年(1917)当時の田垣内家住宅(三重縣史より)

明治33年(1900)頃

・五郷尋常高等小学校尋常科に入学。

明治34年(1901)2月1日

・父の叔父田垣内松之助が桃崎郵便局(現五郷郵便局)を開局。松之助が局長として、事務を執る。

明治39年(1906)頃

・五郷尋常高等小学校尋常科卒業。

・五郷尋常高等小学校高等科に入学。

明治42年(1909)頃

・津の階林学舎に在籍。

友吉(左)の京都修業時代当時の仲間との写真
友吉(左)の京都修業時代当時の仲間との写真

明治45年(1912)頃

・京都同志社中学に入学。中学の講義でキリスト教を知り、京都市北区平野八丁柳町の西都教会井田健司牧師により洗礼をうける。

・父の叔父田垣内松之助死去する。五郷郵便局長を父粂吉が継ぐ。

大正4年(1915)頃

・同志社中学卒業。この頃、菊池契月の菊池塾に入門して、菊池契月から日本画の手ほどきをうける。同門に谷角日婆春と宇田萩頓がいた。

五郷に帰郷、結婚~東京で各種公募展に足を運び、勉強を重ねる~

大正6年(1917)~大正13年(1924)

・自らの絵画表現を見出すため、東京に毎年のように出掛け、洋画の各種公募展(文展・帝展・淡交会・日本美術院・二科展・春陽会)に足を運び、勉強を重ねる。

大正9年(1920)10月

・熊野木本の地方紙「紀南新報」(現南紀新報)に「二科院展を観る」として五回にわけて二科展・帝展に出品されている作品の短評を投稿する。

大正10年(1921)

・日記を書き始める。

大正11年(1922)4月23日

・五郷村大字桃崎の山東寿の長女光恵と婚姻。

生涯の師中川一政との交流と死~勇気をもって歩みだしたからこそ与えられた至福の時~

友吉が投稿したみづゑ第253号
友吉が投稿したみづゑ第253号

大正14年(1925)

・中川一政に師事。5月17日~8月7日にかけて、東京で滞在。

大正15年(1926)

・3月発行のみづゑ第253号に「日本水彩画評」を投稿。

・上京、第4回春陽会展へ「葉歯原」を出品するが落選。

・中川一政より、第3回春陽会展出品作「夏の橋」を譲り受ける。

昭和2年(1927)

・関西美術展に出品して、初入選する。

・第5回春陽会展に「五郷桃崎の景」「初秋の郊外」を出品して、2作品とも入選。

昭和4年(1929)

・第7回春陽会展に「春」を出品して、入選。古賀春江から「春は穏健でよい」と評価される。

昭和5年(1930)

・茅ヶ崎で発病して、農家で療養しながらスケッチをする。

昭和6年(1931)

・10月4日、肺結核で死去。享年37. 


当ホームページ訪問者数・ページビュー(令和5年・2023年4月1日現在)

・訪問者数   2567人

・ページビュー 4740回

令和元年(2019)5月8日から令和6年(2024)3月17日まで集計


SNS


QRコード

当ホームページ(熊野石蔵美術館~田垣内友吉記念~)のQRコードです。)


パンフレット

ダウンロード
熊野石蔵美術館~田垣内友吉記念~
熊野石蔵美術館のパンフレットです。ダウンロードしてお使いください。
熊野石蔵美術館~田垣内友吉記念~.pdf
PDFファイル 983.2 KB

お問い合わせ先


メモ: * は入力必須項目です