紀南絵画の源流

・当美術館が所有する芸術家の作品とその芸術家を「紀南絵画の源流」として紹介します。

①西村伊作(1884~1963)

 伊作は明治17年(1884)、今の和歌山県新宮市で生まれました。7歳の時、母の実家にあたる奈良県吉野郡下北山村の山林王、西村家を相続しました。大正10年(1921)東京の駿河台に真の学校教育を求めて文化学院を創設して、校長として学校運営に関わりました。

 石蔵美術館で残っている西村伊作の手紙は大正9年(1920)5月に、友吉の父粂吉が西村伊作の所有する山林の売買に対する御礼として伊作が書いたものとされています。

 また、石蔵では石膏でつくられた馬の彫刻が残っています。残念ながら作品には作成者の名前、年代が書いていませんが、下北山村にある西村伊作の墓には馬が彫られていることから、伊作の作品ではないかとされています。

西村伊作の手紙翻刻

   田   御差書候込陣拝

   垣   礼送類別被者啓

   内   旁候全紙下細愈

   粂   右間部受難手御

   吉 西 迄御取取有山多

   様 村  査揃証正代祥

     伊  収調及ニ皆奉

     作  被印登相金上

        下シ記受御候

        度   払


②尾崎行雄と田垣内松之助

 行雄は、安政5年(1858)現神奈川県相模原市に生れました。明治23年(1890)の第一回衆議院議員総選挙連続25回当選を果たし、「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれました。

 石蔵を建てた田垣内松之助は行雄の支援者の一人として熊野では知られた存在だったようです。熊野市の地方新聞の一つである南紀新報社の社長を務めた武ノ上千代之丞がまとめた『奥熊野百年誌』によると、このような逸話がのっています。

 「尾崎の熊野での定宿は、木本の喜多館であった。喜多静江さん(喜多館女将)の話では明治25年(1892)の選挙干渉の時、「反対の人々から、尾崎を泊めたら火をつけて焼くぞと脅かされたため、喜多館でも断ったので先生は止むなく井田村へ行くといって、出かけようとしたのを祖母さん(喜多いし)が呼び戻して泊めた。五郷の田垣内松之助とか遊木の大川某という方が喜多館が焼かれたらオレ一人で建ててやると引き受けてくれたので泊めた」とのことであった。それ以来、尾崎は木本では喜多館以外泊まることはなかった。」とあり、松之助が行雄のことを政治家として期待して支援していたことがわかります。

 また、行雄は五郷では松之助の家(当美術館の母屋)で泊ったとされ、行雄が揮毫した書「整而勤」が残っています。

③山東壽(1874~1930)

 壽は館長の祖母の父(曽祖父)、また田垣内友吉の妻の父にあたります。明治末年から大正初期にわたり、五郷村助役と村長を務めました。

 村長を務めた壽は五郷村役場の新築、日清日露戦争で戦死した五郷村の人を慰霊するため表忠碑の建設をしました。その傍ら所有していた山林を管理して、自転車に乗り、俳句を吟じるなど、当地では文化人としてその名を知られていました。

 壽の最大の功績は、現在、三重県松阪市に本社を持つ第三銀行の設立には、壽の激励と助言、協賛を得たため、設立に至りました。

 また、壽は書道を好み、「福寿」と書いた書道は愛する娘が嫁いだ田垣内家で大切に守られています。

 


    山東 壽                   壽の残した書「福寿」

④井上円了(1858~1919)

 円了は明治23年(1890)から大正8年(1919)まで27年間にわたり、全国各地を巡回して講演しました。この時の寄付によって東洋大学が建設されました。

 円了が巡回した記録は『井上円了選集』におさめられており、明治33年(1900)には、南紀巡回として和歌山市から奈良県下北山村まで11月17日から12月31日にかけて巡回しました。

 五郷には12月23日に寺谷の光明寺、24日に桃崎の桃源寺で講演をしました。講演の発起人として山東壽、田垣内粂吉、田垣内松之助等の名前が見られます。

 石蔵美術館に残っている掛軸は山東壽にあてて円了が揮毫したものになります。